こんにちは、星野雄飛です。GW真っ只中ですね。日並びが悪く大型連休にならず、近場でお出かけしている方も多いかもしれません。早いことでコラムも4回目となりました。季節も同じく早くめぐり、北見でも桜がぽつりぽつりと春を告げています。今回は不在を撮るむずかしさについて考えてみます。

東京の感覚だと4月は季節の変わり目ですが、道東では間延びしている感覚です。3月は流氷や降雪で冬が残り、5月は桜や新緑が視界を彩る眩しさがありますが4月は色彩にも変化にも乏しい一ヵ月です。ふと足元に目をやるとフキノトウが雪の間から顔を出したり、雪が解けて現れる草の上に落とし物をしていく動物もいます。シカが生え替角を落としていく時期です。角はあるのに持ち主はどこかに行ってしまっている、そんなシカに関係する話題です。

先日、家から50分ほどのところにある温泉(露天風呂)でリラックスしていると、一匹のキタキツネが向かいの山の斜面を横切りながら時折こちらを眺めてきました。キタキツネが斜面にいるとキツネが小さい存在でも山に「野生」を無意識にも感じてしまうと思います。実際、温泉でリラックスした中で少し背筋が凍るような感覚を覚えました。しかし、山にキツネが不在(=視覚として認知できない)であるとそれはただの山であり、そこに「野生」を直接感じられません。人間に直接危害を与えることが少ないキツネやシカ。頭の中ではキツネやシカの生息範囲だと分かっていても怯えや恐怖といった強い感覚には襲われません。当たり前のことかもしれませんが、いつも不思議に感じています。

写真を撮るとき、そこにあるもの(=実在)をカメラという機械を使ってデータという形で残すことになります。仕事でも〇〇を撮ってこい、と言われたら〇〇を撮ることになります。当たり前のことを書いていて自分でも少し変な感じがしますが、実在を撮らずに〇〇を見た人の頭の中に描かせることができたら面白いな、と最近考えるようになりました。このように考えるようになったのは写真メディアはある一つのことを伝える役割が実は苦手なんじゃないか、と感じるようになったからです。唯一の正解を見せてしまうのではなく、ヒントを与えて鑑賞者一人一人の頭の中にあるイメージを膨らませていくのがどちらかというと得意なのではないかと思うのです。 ここの部分をしっかりと理解して扱えるかどうかが写真がうまいかどうかに直結してくる部分だと思います。
話をシカに戻しましょう。動物を撮るときは望遠レンズで狙うというよりも、風景の中に点景として存在する動物たちに興味があるためスナップ的に出会いをカメラに収めています。第一回のコラムでも触れた自分と動物との距離感をそのまま写せるのが点景としての動物だと日々感じています。動物のシルエットがそこに小さくあるだけで様々な想像できます。動物のシルエットに自分自身を投影してみたり、大自然との調和を楽しんでみたり、物語が生まれます。背景の中に撮影者が意図的に動物を配置しているというある種の恣意性が透けて見えてしまうこともあります。

では、動物の点景があった場所で動物がいない写真を撮ると「不在」を撮れたことになるのでしょうか。それは違います。不在をイメージしやすい「気配」に置き換えて考えてみましょう。その場にいる人間は風や匂い、音などで気配を感じるかもしれませんが3次元に360度広がっている世界から2次元の四角形に切り取っている行為です。気配を感じとる部分がすべてそぎ落とされているのが動物が点景として入っていない写真に過ぎないのです。では、動物の足跡や食痕、爪痕を写せばそれが気配を撮るということになるのでしょうか。もちろん、動物自体は写っていないですが連想させることはできます。ただ、気配とは視覚情報のみで感じるものではなく、気配を撮るということはその視覚以外の感覚を刺激するようなしかけが必要だと思います。

では、具体的な何かを写すのではなく、怖さやゾクゾクする感情そのものを撮ろうとしてみてもいいのかもしれません。用意した2枚は直線的なヘッドライトで暗闇の森や湖面を写した写真。自分はこの2枚の写真を改めて眺めてみると何が写っているわけではないのについ自分の背後の安全確認をしかけてしまいそうでした。ここにシカがいたかどうか(=事実)よりも心理的なイメージで語ってくるタイプの写真です。シカはいなくてもなんとなくシカがいるんじゃないか、と思わせる絵作り。具体的なもの(ここではシカ)を撮らなくても伝えられる力が写真にはあります。もちろん、この2枚だけでは作品として見せられるようなものではありませんが、一つの習作にはなってくれました。そして、写真を複数枚組み合わせることで写真同士が共鳴してより深く広い世界を見せられるのが写真の強みです。


これまで、自分の写真の撮り方として模様として美しいものやインパクトのあるものなど分かりやすく「スッ」と入ってくる写真を撮り続けていました。特に風景写真を撮っていると被写体とじっくり向き合うことができるため作りこみすぎてしまう傾向がありました。今回「不在」というキーワードからその撮り方に対する自分なりの問題提起をしてみました。気配を撮るということは不在を撮ることに近いです。一言に不在を撮るといっても作家ごとに定義はたくさんあり、4月はたまたま手にした写真集や足を運んだ展示で作品を見ることができました。実在は写さずに影を撮ってる作品、動物園の展示場に動物がいない瞬間をまとめた作品、そして人種差別が激しかった1950年ごろの白人家族の家族写真に溶け込むようなポージングをした黒人男性が違和感なく合成された作品(下記、会場P参照)。どれも自分には刺激的で、かつ、写真の面白さを再認識できた体験でもありました。

The Anonymous Project presents Being There
今月は季節の性格に呼応して自分も春を待つ冬芽のようにインプットをする時間が多かったのでこのようなコラムになりました。次回はフィールドにどんどん出てアウトプットをしていければと思います。
今回も読んでくださりありがとうございました。 また来月お会いしましょう。!
この記事へのコメントはありません。