文芸を学ぶ一学生として、また文芸を嗜む表現者として、詩の鑑賞や解釈、吟味を日々楽しんでいます。
詩を読むということは芸術作品をじっくり味わうのと同じで、すんなりと達成できるものばかりではありません。
しかし、詩を読んでいくと、ただ語彙が増えるだけでなく、詩人たちの表現者としての鋭利さ特異な感性、その文章美に自信の感性もまた磨かれ、世界に新たな視点を与えてくれたりします。
そこで今回は、私と一緒に詩を味わってみましょう。
本の中の洗練された活字、それが今回の言の葉散歩の目当て言葉です!
それではまず、アンチュール・ランボーの作品を一つ取り上げてみます。
彼は言わずと知れたフランスの天才詩人です。早熟な天才、神童と評された彼は15歳から詩を書き20歳で詩を放棄しました。ですので、今残っている詩作品はすべてその時期に描かれたものとなっております。
「感覚」
Arthur Rimbaud
夏の青い夕暮れには、山の小道に行こう、
麦の穂に刺されながら、小さな草を踏みしめに。
夢見心地で、足元に草の冷たさを感じよう。
帽子をかぶらぬ頭を、風が浸すに任せよう。
ものを言うまい、何も考えるまい。
それでも無限の愛が魂に湧いてくるだろう。
それでもジプシーみたいに遠くに、うんと遠くに行こう、
〈自然〉を突き抜けて-ー女と行くようにしあわせな気分で。
この詩はランボーの初期の作品。19世紀のフランスに彗星のごとく現れ、消えていった若い感性は、この二連という短い詩からも十分にその魅力を読者に示しているかと思います。
まず、一行目の夏の青い夕暮れには、山の小道に行こう、
夕暮れに、あまり青いと言う形容詞は使いませんよね。その異質は表現が、まず読者に疑問符を持たせ、一挙にイメージが宇宙的な広がりを見せます。たとえば、ここで夕暮れによく使うであろう赤いを入れてみると、
夏の赤い夕暮れには、山の小道に行こう、
ほら、これで一気に陳腐な作品に落ちてしまいました。青い夕暮れだからこそ、読者が考える余白があるし、なにより詩情があって調べがいいですよね。
一連目は映像として起こしやすい描写ですね。自然をかけてゆく少年ランボーが、美しくまとまった文章で表現されています。その節々からみずみずしさを感じませんか。
この詩で私が特に好きな表現が
帽子をかぶらぬ頭を、風が浸すに任せよう。
風がなびく様を、こんなふうに表現するのか、と思わず息が漏れてしまいます。頭を風に浸す、確かに風ってどこか液体のような感覚を持つことがありますよね、初めて見る描写なのにどこか共感できてしまう、それが良い表現の条件なのかなと思ったりして。

一連目のイメージ。
さて、大きな転換を迎えるのが次の二連目ですが、ここにランボーという詩人のポリシーや世界との向き合い方が見えます。
15歳の少年が描いたこの作品はのちの彼の運命を示唆するような、不思議なものとなりました。
有名なハリウッド映画「ランボー」は破天荒な兵士が主人公ですが、それはこの破天荒な詩人ランボーがモデルです。
20歳で詩を書くのをやめた彼は、自身の業績には関心を持たず、自由奔放な人生を歩みます。天才詩人として名を馳せた彼は、その後武器商人となって北アフリカをなどを放浪し、37歳で逝去します。
それでもジプシーみたいに遠くに、うんと遠くに行こう、
ジプシーとは、ヨーロッパので生活している移動型民族の指す民族名です。
自分がジプシーのように放浪していく様を描いているのですね。
〈自然〉を突き抜けて-ー女と行くようにしあわせな気分で。
そしてこの最後の一節。
ここがこの詩の根幹なのは間違いないですが、分解してみましょう。
〈自然〉
なぜここで自然にカッコがついているかというと、原文だと自然を意味するla nature がla Nature と大文字書きで描かれているからです。そして、それは視覚的にもそうですが、文芸の中では大きな意味を持ちます。
それは擬人化。
ここでは自然が、まるで一人の生物、人間のように扱われているのです。
それを踏まえてもう一度読んでみると、
ものを言うまい、何も考えるまい。
それでも無限の愛が魂に湧いてくるだろう。
それでもジプシーみたいに遠くに、うんと遠くに行こう、
〈自然〉を突き抜けて-ー女と行くようにしあわせな気分で。
擬人化された自然。それは作者の放浪の旅の空間であるのと同に、
女と行くようにしあわせな気分で。
この表現から、旅の伴侶のようにも感じられます。
〈自然〉という女性を連れて、夏の日に放浪していく。それこそが少年ランボーの思い描いた幸せなのでしょうか。
そして一連目を改めて読むと、〈自然〉との交わりを描いているようにも読めます。擬人化された〈自然〉という女性の肉体、自分が交わる様子を描いているとして読んでみると、途端に官能的な側面も覗けてきます。

女性的な妖しさを持つ植物。
少し熱くなってしまい、一つの作品で大量に文字を書いてしまいました。
本当は3つほど作品を紹介しようかなと考えていたのですが、あまりにも長くなりすぎるので今回は一つにさせていただきます。
詩を読むのに際して、重要なのは作者の思惑を汲み取るのが全てではないと、認識することだと思います。
というのも、かえって読者が独自の解釈をすることが、詩の世界を広げていくことになるからです。
そして、よく言われることですが、詩を読むのに正解不正解はありません。作品を恐れず、面白く読めればそれでいいんです。
そのヒントになるのが、作者や作品の背景を知っておくことだと思います。
例えば、ランボーという詩人の作品を読むにあたって、大切なポイントは彼は幸福を求める人間だということ。とにかく幸せになるために選んだ手段が、詩だったのです。(なので、それ以降は詩人以外の職種を転々とします。ただの手段に過ぎないためでしょう)そして、彼にとっての幸福は自然や世界を全身全霊で感じることだった、のだと私は思っています。
そのうえで彼の作品を読めば、一見難解に見えても、スラスラと紐解けていくことがあります。
みなさんも、ぜひ参考にしてみてください!
では、最後に私がどんな感じで作品を味わっているのか、書いてみたので載せておきます。

ボードレールの『悪の華』より「秋の歌」
もちろん、毎回こんなふうに書いているわけではありませんが、なんとなくのイメージです。
文字が汚すぎるので、参考にはならないかもしれませんが、、、。
こちらもまたフランスの代表的な詩人ボードレールの作品です。
近代的詩の父とも評される彼の話も、またぜひ。
ありがとうございました。
言の葉散歩、来月もまたお会いしましょう!
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